池田屋跡



京阪本線三条駅、地下鉄東西線三条京阪駅より徒歩5〜7分。
三条大橋を渡り、更に高瀬川を西へ渡った所。
通りの北側に面するパチンコ屋の場所に、池田屋が建っていました。
現在は碑が建つのみで、池田屋の面影はありません。
パチンコ屋より、やや東に進んだ路上に、当時の池田屋の建物が
建っていた場所を記すプレートがあります。






新選組の名が知れ渡った事件として有名な池田屋事件は、
1864年6月5日の夜、この場所で起こりました。
同日の早朝、尊攘志士の古高俊太郎を捕縛した新選組は、
尊攘激派が画策していた京大火計画の全貌を知り、急いで市中の討伐に乗り出します。
一方、計画の全貌を知る古高を捕らえられた志士達は、古高奪還と
京大火計画を早める事を考えます。
この日、元より池田屋での会合が予定されていたのですが、思いもよらぬ事態に
陥り、その打開策もこの時話し合われていたと思われます。
木屋町、河原町を二手に分かれ捜索していた新選組。
局長近藤が率いる隊が、この場所に志士達が潜んでいる事を発見し、
そのまま乱戦に突入します。
新選組、倒幕志士、ともに多くの犠牲者を出しました。
「この事件が維新を1年遅らせた。」という見解を持つ人もいるようですが、
尊攘志士の中でもリーダー格といわれる、宮部鼎蔵、吉田稔麿らは慎重派と呼ばれ
激派の動きを牽制しながら、朝廷や幕府とも歩み寄るべく工作活動を行っていました。
そんな慎重派の需要人物の殆どを失い、これを機に倒幕側は一気に
激派の志士が台頭、行動はどんどん過激になっていきます。
むしろ、幕府の衰退を早めた事件、それが池田屋事件なのです。
(2007年6月20日UP)

戻る